★上田市ブログは近日中にサービス終了となります。★上田市ブログは近日中にサービス終了となります。★上田市ブログは近日中にサービス終了となります。
掲示板お問い合わせランダムジャンプ

2022年07月30日
アーカイブ『2007年』など
2007年は、市立船橋高校吹奏楽部さんが座奏の全国大会に初出場を果たし、唯一の全国大会出場にもなっている年です。市立船橋野球部さんは今年の夏、2007年夏以来の甲子園出場を果たしたわけです。

2007年はバイオリン界で日本人が賞を独占しました。
2007年第13回チャイコフスキー国際音楽コンクールにて、神尾真由子さんがバイオリン演奏部門で第1位を獲得されました。それは、圧倒的な評価での第1位であったのではないでしょうか。私個人の感想として、世界的に見て神尾さんと同等以上の演奏力がある人自体数える程であり、当然の第1位であったと思えます。
同じコンクールのバイオリン製作部門においては、第1位が菊田さん、第2位が高橋さん、第4位が天野さん、第6位及び最優秀音響賞が岩井先生となっています。この評価においては意見が分かれるところがあるかもしれませんが、私は特に問題ないと思います。
今までに、第1位菊田さんのバイオリンを弾かせていただける機会が何度かありましたが、率直に言って菊田さんのバイオリンは弾きやすくありません。しかしきちんとした練習をした上で、きちんとした圧力をかけると音がホールの遠くまでいきそうな力強い硬い音が出ます。一方で、ちゃちゃっと適当に音を出そうとするとその硬さに弓が弾かれる感じがあります。
第2位高橋さんのバイオリンも何度か弾かせていただきましたが、音が遠くまで届きそうな硬さと、弾きやすさのバランスがとれている楽器と感じます。このバランスも大きなホールで素晴らしい発音をする上で大事な要素だと思います。
このような発音性の優れたバイオリンは世界の一流の製作者と比較して何らそん色ないと思います。見た目の美しさと合わせて世界的なコンクールで第1位、2位を獲得されても異議を唱える人はいないと思います。
このように、2007年はバイオリン界において、日本人が世界的なコンクールを席巻した年でありました。

2007年私個人としての大きな出来事は、松本のバイオリン製作者、井筒先生とお会いできたことです。
私は2007年は木曽町福島に住んでバイオリン製作を習っていました。その製作教室の先生の知り合いの製作者に井筒先生がいらっしゃいました。
2007年のある日、私を含めて製作教室の生徒4名と製作教室の先生とで井筒先生の個人展示会に出掛けました。松本の井上デパートさんで開催されていた展示会です。
今回はその時の詳しい様子は省略しますが、井筒先生が私達と会った時のリアクションはセンセーショナルでした。そして笑うしかありませんでした。
この展示会の井筒先生のバイオリンを試奏させていただいている時に、私は井筒先生から音を誉められました。それは、私に対して愛しさをこめて睨みつけるように一言「お前、いい音してるな」というものです。
私が弾いていたのは当時の私の十八番であった、ザイツの練習用コンチェルト第5番第1楽章です。このレベルの曲で私の発音を誉めてくださったプロの製作者は今まで井筒先生だけです。そして私の音を一番最初に誉めてくださったプロの製作者も井筒先生です。
井筒先生がご自身のバイオリンをコンクールに出展された場合、率直に言って10位以内に入るのは厳しいと思います。しかし、井筒先生のバイオリンに対する嗅覚のようなものには、他の一流製作者でも真似のできないものがあると思います。それを井筒先生のバイオリンからも、私の音に対する誉め方からも感じました。後に知ったのですが、五嶋龍さんのプロデビューに使われた分数バイオリンは井筒先生の作品です。
井筒先生とお会いできたのはこの時だけです。たった一度の一日だけの出会いです。しかしこの一日は、今でも私の大きなインパクトとして残っています。
井筒先生は鈴木慎一先生からかわいがられていらしたようです。
歳をとり、私も偉そうな口をきくようになりました。しかし偉大な本物の大人を思うと、私は一生偉大な大人の背中を追い続ける子供なんだろうなと思います。

2007年は市立船橋高校吹奏楽部さんにとっても、バイオリン演奏界やバイオリン製作界にとっても、大きな評価を受けた節目になった年ではなかったのではないでしょうか。
私にとってバイオリンのことで節目となった年は三つあります。一つは2006年秋に弦楽器フェアに初めて行き、初めてプロの製作者の方々と会ったことです。26歳秋に独り切迫感にかられて、本格的なバイオリン練習を始めたことも大きな節目です。そしてもう一つは、1992年晩秋に初めてフルサイズのバイオリンを購入したことです。これが私の三つの節目です。

2006年の翌年が2007年です。市立船橋高校野球部さんが最後に甲子園で勝利をあげたのが1997年夏です。この年の市立船橋高校の初戦の相手は文徳高校であり、この試合が甲子園史上、最大得点差逆転からの最大得点差勝利となっています。それは私が今まで見た甲子園の試合の中で、最も重苦しさを感じた試合でもあります。1ー9から最後は17ー10となった試合です。

1992年はバイオリンを購入しバイオリンの節目の年となっただけでなく、高校野球観戦でも節目となった年でもありました。
92年夏の甲子園、常総学院ー佐世保実の試合の最後の流れがショッキングだったことから、自分がキャプテンやキャッチャーだったらどう試合を修正できるだろうか?というような思いが高校野球観察意識の始まりでした。それまでの私は観察考察意識の薄い観戦でした。チームがたった一人の三年生、他はほぼ二年生だったというチーム構成も私の観戦意識を変える大きな要素でした。
そしてその年の秋に関東大会に出場した常総学院の観戦観察が高校野球観察の始まりでした。同時に今の人生観につながる人生勉強の始まりにもなったと思います。その大会に出場していたのが市立船橋高校野球部さんでもあったわけです。そして市船野球部さんの快進撃の始まりにもなったと思います。

1992年秋から私は常総学院野球部のおっかけ観察を始めましたが、付随するように横浜高校の観察もしました。常総学院とは随分スタイルの違う野球をする横浜高校の観察も私にとっては大事な人生観につながりました。
1991年秋から1998年までの横浜高校野球部の流れを感じとることは今の私の判断力に大きな影響を与えています。
1991年秋から、勝てない、勝てない、結果が出ない、大事なところで勝てない→その壁を破るべく実力と精神を備えた新エースの登場→そのエースの死→そのエースの死を乗り越えての同級生の奮闘→横浜高校久々の甲子園ベスト8目前の逆転負け→1997年、それまで三年生が守ってきたエースの座に久々の二年生→その二年生の神奈川大会準決勝、自らの暴投でサヨナラ負け、エース自らの不甲斐なさと先輩への申し訳なさからそのまま号泣→新チーム、公式戦無敗で高校野球史上初のグランドスラム達成。
私は常総学院のおっかけと共に横浜高校のこの6年半の流れを感じ続けました。テレビ観戦だけでなく横浜高校の実際の試合も見ました。横浜高校の6年半を見続けました。結果が出ない、残酷な運命の中、それでも真っ直ぐな野球道を追い続ける横浜高校の指導者方、それを感じました。
常総学院木内監督、横浜高校渡辺監督・小倉部長はタイプは全く違いますが、本当本物の大人だと思います。そして今でも思い返すと、本当本物の大人の信念に圧倒されます。

その横浜、常総学院に次いで関東で存在感を出していたのが市立船橋野球部さんだと思います。当時の市立船橋野球部さんは、何か甲子園に存在感残さずにあっさり負けないチーム、というイメージでした。
私は市立船橋野球部さんを観察の対象にしたことはありませんでしたが、横浜、常総学院に次ぐ存在感がありました。当時の市立船橋野球部小林監督もやはり本物の大人だと思います。
市立船橋野球部さんの甲子園初出場は1988年のセンバツです。私が高校三年になった年ですから同級生ということになります。しかし記憶には一切ありません。日本ハムで活躍された立石さんが同校野球部出身だということを今日知りました。
私は市立船橋野球部さんとは何のご縁もありません。間接の間接のご縁もありません。しかし何故か不思議な因縁のようなものがあるように思えます。

今の野球部さんには、何か存在感を残さずに負けない、というものはないと思います。しかし「市船soul」があると思います。「何か存在感を残さずに負けないチーム」ではなく、いつの日にか壮大な足跡を残すチームをイメージして、初出場のような気持ちで今をかみしめてほしいです。そもそも大阪桐蔭など一部のチームを除いて、その力量は横一線だと思います。


[ 投稿者:むぐらし at 19:27 | まめつぶく記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]
このエントリーをはてなブックマークに追加

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://ueda.ctv-blog.jp/u/doordoatama/a00785/0000042381.trackback

この記事の固定URL
http://ueda.ctv-blog.jp/u/doordoatama/archives/0000042381.html

記事へのコメント
 
認証コード:  →画像が読み難い場合はこちら
画像に表示されるコードを半角英数字で入力して下さい。
名前: [必須]
URL/Email:
タイトル:
コメント: