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2020年05月31日
明日から6月
明日から6月です。世間では自粛緩和が早まっているようですが、私は今日までは生活に必要外のことは自粛してきました。明日からは少しばかり生活の仕方を変えていきます。でも4の3程は今まで通り控えめに行動していこうと思います。

このブログは雑記でしてテーマがありません。その時その時に起こった出来事に私の僅かばかりの知識を交えたものがこのブログです。
雑記をまとめるというのは簡単ではありません。自分の記録として残すだけなら何も難しいことはありません。でもその自分の記録を超えて良いものを残そうと思った途端に様々な問題が発生すると思います。
良かれと思って編集したけれど単に独りよがりのエゴな内容であったり、一方で必要以上にエゴ扱いにされたりということなどがあると思います。

それなりのものが出来たということを前提にしますが、それを読んでくださった方の2、3割の人は甘いと指摘するでしょうし、別の2、3割の人は価値があると評価してくださると思います。そして修正を重ねても2、3割の人はやっぱり甘い考えとすると思います。そういうこともあり、修正や編集をする場合賛同してくださる2、3割の方にお願いすることになると思います。でもその際に私は必ず「ご指摘いただいたことについてその半分は反論すると思います。時には同じくらい意見を返すことになると思います。その上でご協力いただけるならば是非お願いいたします」という言うと思います。
こんな出来のブログでも、時事的な話を無視せずに最低限のアイデアを盛り込んで感想を記し続けるのは簡単ではありません。そして能動的に自分を発し続けるということは自己主張だけでなく、お世話になっている方々や社会に対して何か還元したいという気持ちがあります。
そんな中で応援してくださる2、3割の方々は、期待値が大きい故に期待外れと思うと必要以上に厳しい指摘になる可能性が高いと思います。

規定・定型しか許されない分野、本格本物しか許されない分野ならば厳しい指摘を受けとめるべきです。でもその必要がないものは指摘する側も妥協を常に頭に入れて指摘すべきだと思います。そうでなければいつまでたってもまとまらりません。

2、3割の人は何をしても認めてくれないかもしれません。一方で応援してくださる2、3割の人も期待外れと思った時に厳しい指摘を投げかけてくる可能性があります。その両方が合わさって来ると心が強く追い込まれるかもしれません。

「ご指摘いただいたことに対して半分は意見を返させていただく可能性があると思います。場合によっては同様な指摘返しをさせていただくかもしれません。その上でご協力いただけるならば喜んでお願い致します」
これは望んで発するものではなく最悪を避ける一つの手段です。最初からこんなことを述べていたら誰も協力してくださらないかもしれません。でも最悪な流れを避けることと還元への意識を両立させるためには必要だと思っています。
こんなことを当たり前のように思うようになったのは最近のことです。10年前には考えもしなかったことです。ただ、私の述べたことはあくまで一つの考えにすぎないことです。




今回のウィルス問題による生活習慣の変更でバイオリンのノルマが変わりました。6年前に肺炎をおこすまではバイオリン演奏においてセミプロすら意識していた私ですが遠い過去のような思いがあります。

一寸先の私の健康がどうなっているのかわからないこともあり、バイオリンのノルマを更に落としました。仮に半年程でワクチンや特効薬ができてもノルマを元に戻すことはないと思います。
チャイコフスキーの「ワルツ・スケルツォ」、ヴィエニャフスキの「スケルツォ・タランティラ」「華麗なるポロネーズNo.1」までをノルマにしました。その上で時間的に可能ならばラヴェルの「ツィガーヌ」かサンサーンスの「ロンドカプリチオーソ」にチャレンジしたいです。難曲であり、長い曲でもあるのでどちらかにします。これも今後練習時間が大幅に確保できた場合です。そして還暦を迎えるまではこれが限界だと思います。
コンチェルトの挑戦は断念しました。意識するだけで時間の無駄遣いになると思いましたので。プロコフィエフのソナタ挑戦やアマチュアオーケストラへの参加も60歳を超えて時間があればやります。
今回のウィルス問題により2、3年先や5年先を見越して生活していかねばならなくなりましたが、実際のところ10年先も意識していかねばならない状況です。
年々身体も頭も機転が効かなくなってきました。その時、その時に応じた努力だけでは老いに対応できなくなってきまさそた。一方で今までの経験則から10年先のノルマを意識しながら今を生きていくことができるようになってきたと思います。ウィルス問題により10年先を意識せざるを得なくなり、ウィルス問題により一寸先の自分ですらわからなくなってしまったわけです。
実行可能な夢を見なければ10年先は意識できませんし、刻々と変わりゆく現状の流れを直視していかなければ一寸先の自分ですら危ういものです。
ピンチはチャンスと考えられる人はいいのですが私はピンチはピンチとしか考えられません。ただ、無事に一難を乗り越えられたなら「ピンチがチャンスだたのかもしれないな・・・」と思えるようにはしたいです。そのためにも10年先は意識をしています。20年先のハッキリした意識はありませんができそうなことはイメージしています。


社会全体はどうなるのでしょうか? 5の1程度は電子社会がより進み、一方で5の1程度はローカルな流れの採用が見直され、5の3程度は修正を繰り返しながら今までのことが応用されていくという感じでしょうか?
どうなるのかわかりませんが何かが変わらなければ不味いように思えます。


[ 投稿者:むぐらし at 20:58 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月30日
油断大敵
一昨日の話ですが、少しヒビが入ったどんぶり茶碗を洗剤をつけて水道水で洗っていた時のことですが、その茶碗がパカッと割れて割れ口で手を切ってしまいました。
2月の時のようにカッターで左手親指先をザックリ切ってしまったほどではありませんが出血を伴うケガをしてしまいました。
左手は人差し指少し下の側面を切りまだ完全には傷口は塞がっていません。右手は中指の第三関節の矢状策のあたりを切りました。こちらは傷は塞がったものの二年前に手術をしたところであり、矢状策に影響がないか暫く様子を見なくてはなりません。
油断しているつもりはありませんでしたが、矢張り張り詰めた緊張が緩み、その結果のケガだと思います。

私が手を切ってしまった茶碗は小諸の本社の横にあるツルヤさんで購入したものです。私が現在使用している茶碗、湯呑みは全てここで購入したものです。私は今まで買い物をしたスーパーの中でツルヤさんが一番気に入っています。そのツルヤさんの中でも本社の横にあるお店には特に思い入れがありました。そして今回のケガはヒビが入った茶碗を廃棄するのをためらったことにあると思います。
小諸の住まいに合わせて4つのどんぶり茶碗を購入しましたが今の住まいには4つも必要ないと思います。割れた茶碗は勿論、使用していないどんぶり茶碗をもう一つを処分することにしました。

今回のウィルス問題対策ために頻繁に買い出しに行きましたが、本当に使用するかどうかわからないものも購入しました。ただ、それは仮に使用することにならなくても、状況が悪化した時に必要となる可能性が高いものであり、或いはいつかは使い切る可能性が高いものです。でも小諸で購入したどんぶり茶碗のうち二つは今後使用する可能性の低いものです。そんな中で4つの茶碗のうち一つはヒビが入っていたわけです。思い入れがあるとはいえ使い続けてしまった私は判断が甘かったというか油断していたと思います。

やるべきことを絞って尚且つ適切にウィルス対策をしなければ、感染リスクがあがるばかりか精進するための時間すら無駄遣いをしてしまいます。
油断しているつもりはない、緊張感をもって仕事や生活をやっていると思っている時にこそ、油断というものが発生しやすいのかもしれません。緊張感を持続している時についた一息が思わぬ落とし穴なのかもしれません。日頃から緊張感を保つ場面と、そうでない場面とを見極めておかなければ落とし穴が発生するのかもしれません。やるべきことや大事にすべきものを絞っておくこともそんなことのために必要であると思います。


6月よりバイオリンの練習を再開するつもりです。手のケガをしたものの元々激しい練習をするつもりはなかったので再開の予定です。ウィルス問題がある程度解決するまでは簡易的な楽譜の読解と簡単な実践に留まると思います。
今までは本質的な意味で自粛を基本としてきましたが、6月からは2、3年や5年先を見据えて精進していかねばならないと思っています。仕事も趣味も2、3年先や5年先を見据えて精進していかねばならないと思っています。
ウィルス感染対策のための自粛は引き続き継続していきますが、先を見据えた精進も実行していかねばならないと思います。そのためにタイミングを含めてやるべきことをしっかり見定めていかねばならないと思っています。



[ 投稿者:むぐらし at 14:38 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月25日
まだよくわかっていません
今までいざという時に連絡をとってきた友人は、横浜や千葉をはじめ殆どが神奈川県か千葉県在住です。そんな友人達に対してウィルス問題が顕著になりだした2月後半より誰とも連絡をとっていません。彼らは家族を含めて無事なのかわかりません。今後もウィルス問題がある程度解決しない限り連絡を取り合うことはないと思います。仮に今無事を確認しあっても半月後、一月後、半年後はどうなっているかわかりません。無事を確認し合うことができても、次の安全確認までの不安が新たにおこります。そんなこともあり身内は別にして、毎日顔を合わせる会社の方々以外と無事を確認し合うことを避けています。

今回のウィルス問題が起きてから随分と買い出しに行きました。整理のためのボックス等も随分購入しました。ただ、これらの殆どはウィルス問題が終息した後も意識して購入しました。
ブログもいろいろ記述していますが、私の健康自体一寸先はどうなっているかわかりません。こうやって度々記していますが不安があります。一方で嫌なことを頭の隅において2、3年先、5年先を意識しながら過ごしています。希望的な意識で3年、5年先の自分を見つめます。
そして、現状である今と3年先や5年先の両方を見つめます。その両方を意識した延長に現実的な半年後や一年先をどう過ごすべきかのイメージが沸いてきます。それは私の場合控えめな行動をベースにしたものですが、頭の中でやっていくことは控えめという感じではありません。

あくまでネットの情報ですが、重症者になってもあまり後遺症の残らないケースもあれば、軽症者であっても肺に重い後遺症が残るケースがあるようです。多数ではないものの極僅かでもないようです。
日本ではあまり聞かれませんがアメリカでは30代、40代で若年性の脳梗塞の発症例が確認されているようです。ウィルス感染後に兆候が見られてから脳梗塞発症までの時間が早いようです。
今までにない症例が次々と発生するのが今回のウィルスの作用にはあるようですが、未だに新たな事実が出てきているようです。


私は行動では自粛を基本としていますが無理をしているという気持ちではありません。ウィルス問題が解決しても3の1、少なくとも4の1は今の生活態度を継続していくと思います。
わび・さびのようなものへの思いとでもいうのでしょうか。それはわび・さびに浸る生活をしようとしているわけではなく、ガツガツ前進しようとするわけでなく、冷静に物事の深さを意識した取り組みも大事にしたいと思うことです。
そういうことがあるので今やっている程度のことは我慢の自粛とは思っていません。
[ 投稿者:むぐらし at 21:38 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月22日
度々の私観ですが
高校野球選手権大会が中止になりました。この件に関してもう触れたくない思いがありましたが、数記前に注文をつけてしまった以上知らぬ顔もできそうにありません。

最近の新型コロナウィルスの感染者数の推移を見ていると中止という判断は勇み足とも思えるかもしれません。しかしそうでしょうか。

夏の紫外線や気温、湿度にウィルスは弱いことがわかってきたようです。野球はあれだけ広いスペースでやるわけです。3密とは全然違うように思えます。これだけ見れば確かに中止にすることに疑問を感じます。
しかし湿度の高い日本の夏にウィルスが弱いことは最近わかってきたことです。それをどう生かすかを検討されたわけではありません。
野球はサッカー程ではありませんが接触プレーの多いスポーツです。手抜きのない真剣プレーが信条の高校生は、ホームベース付近でキャッチャーとバッターが飛沫の飛ばしあいとなる可能性があると思います。
試合後のバスの中は密室となる可能性があります。炎天下での連戦が続けば体力のある高校球児といえ体循環や免疫が落ちることも考えられます。
このような中で一人感染者が発生した場合どうなるでしょうか。感染した生徒だけで収まるでしょうか。
最近の感染者の推移だけ見れば確かに中止の判断に疑問が感じられるかもしれません。しかし非常事態宣言解除後の感染者数の推移のデータはまだ何も出ていません。夏の甲子園を開催するとなると今開催の決定をしなければ試合をこなすのは難しいのではないでしょうか。そして開催を決断した後の話です。その後に第二波がきた時に高校生に対して「仕方ないだろ、現状を見てくれ!」と言えるでしょうか。
「開催は危険だと思います」と言った場合に「判断が甘かった、非常に甘かった」以上の被害はないと思います。でも開催を決定して厳しい第二波が来た場合、開催を推した人達も開催を反対した人達も高校生を巻き込んでパニックに陥りかねないと思います。最悪の流れにつながらないといえなくないと思います。
開催を推した人が自分の否を早急に認め、自ら対策の陣頭を取るくらいのことをしないと最悪の流れにつながりかねないと思います。そしてそれができるならば開催の是非が決まる前に適切な対処法をまとめて公にしているのではないでしょうか。その上で開催中止に不満を述べるならばそれは権利だと思います。

以上はあくまで私の私観です。多角的に検討された話ではありません。しかしです。
センバツが中止と決まった時に私は「無観客まで導入して何で中止なの?」と思いました。実に消極的な姿勢だと思いました。
センバツの中止が決まった時に東京で何千人もの方が感染するなんてゆめにも思いませんでした。お金に余裕のある有名人の方々が次々に亡くなられるなんて考えもしませんでした。他にもまさか、まさかが続いたのが今回のウィルス問題です。
私は6年前肺炎に苦しみました。でも今回のウィルスに感染されて肺炎になった方はそれよりもっと苦しいようです。支える人々もトラウマになるほどの大変さのようです。話を変えます。




2002年秋の11月のとある日に私はセンバツ出場をかけた秋期高校野球関東大会を見に行きました。神奈川県の大和引地台球場まで見に行きました。

第一試合、ある私立高校の選手の動きが目につきました。守備が終わって攻撃に移る際に選手が背筋を真っ直ぐに全力疾走してベンチに戻るのです。素晴らしいと思いました。監督さんの指導の素晴らしさに感激しました。監督さんは私と歳が近いのですが素晴らしいと思いました。その高校は当時は全国では無名に近い存在でしたが今では関東屈指の強豪高校となりました。
しかしです。その屈指の強豪となった年のキャプテンが近年にとんでもない事件を引き起こしたのです。私は非常に重苦しい気持ちになりました。高校の時指導をされた監督さんも、現役の高校生選手も相当重苦しい気持ちになったのではないでしょうか。そのキャプテンは実績を残した当時は素晴らしい人間性をもった選手として称えられていましたので。
第二試合の話です。登場した神奈川県の私立高校は全国屈指の強豪高校として知られていました。その高校の当時の監督、部長は野球の指導ばかりでなく優れた人間教育者として知られていました。凄い方々だと思いました。そんな監督さんでしたが70歳をこえられてから、衰えを理由に勇退することとなりました。そして新たな監督に教え子を指名されました。長期間託すつもりの末の指名ではなかったのではないでしょうか。その若い監督は近年指導法に問題があるとして解任されました。やはり私は重苦しい気持ちになりました。

数年前に高校野球を見ましたが一昔前の高校生と体格が違います。私立強豪高校はまるで大学生です。しかしどんなに体格が良くなっても大学生とはプレーの切れ味が違います。
バッティングだけみれば昔の高校生よりずっと上に思えますが、総合力から見るとそうも思えません。
数年前の高校野球の守備を見ましたが1998年の横浜高校の守備を上回る学校はなかったと思います。2003年の常総学院のボール回しを上回る学校は見当たりませんでした。
勝つためにバッティングの迫力は上がったと思います。しかし見ていて楽しくなる正確でしなやかな守備に時間を割けていないのではないかと感じました。迫力が上がったといえ大学生の切れ味があるとも思えません。そういう中で二つの不祥事がマスコミに取り沙汰されました。最近は甲子園で安定して1、2勝あげられる公立高校がなくなりました。
近年の夏の暑さもあり高校野球はチキンレースのような様相が出てきているように思えます。勝つためのパワープレーの迫力は増したと思いますそれでも大学生には及ばないわけです。結果を残すために無理な身体造りや情報戦が激しくなり、発育途中の高校生の身体も心も消耗させてしまっているのではないかと思います。
そしてこれは何も野球だけのことではないと思います。文化部でも消耗戦のが激しくなってきた分野もあると思います。

目指すべきは甲子園、目指すべきは○□甲子園という時代ではないのではないかと近年思うようになりました。
野球であるならば独立リーグのユースチーム及びそこに参加を希望する公立高校、一方で従来の甲子園を目指す学校、そのような住み分けが必要な時代になったのではないかと思うようになりました。野球にしろ他の分野にしろ一極が当たり前の時代は終わったのではないかと思うようになりました。そんなところに今回のウィルス問題が発生したのです。



2002年度生まれにあたる高校三年生は気の毒です。本当に気の毒だと思います。でも私はそれ以上のことを申し上げれません。申し訳ありません。






[ 投稿者:むぐらし at 20:00 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月20日
今週の平日は
今週の平日は晴れの日がないようです。明日は気温が20度に達しないようです。体調管理に気をつけたいと思います。今日は久々に早目に寝ようと思います。
ピンチはチャンスなどと思うことはありませんが、気持ちが沈まないようには心掛けています。
[ 投稿者:むぐらし at 23:06 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月18日
pianoな音量生活ですが
自粛が必要になってから発音の音量をノーマルより上げたことがありません。mf(メゾフォルテ)以上にしたことがありません。そして発音の音量はmP(メゾピアノ)かP(ピアノ)がほとんどです。(マスクは自宅以外ではつけっぱなしです)
人前ではマスクをつける、人前で咳やくしゃみ、大きな声を出すことを控える、このようなことは感染リスクを下げるために大事なことだと思いますが、ここまでやることにリスク回避の意味があるとは思えません。それでもmPやPの発音に徹っしているのは苦にならないからです。

私の今のこの習慣の原点は26歳からのバイオリンの練習にあります。mPやPの逆のf(フォルテ)やff(フォルテッシモ)の練習にこだわったことにあります。fやffの発音をするための力点を身体の中に作り上げたことにあります。
テコの原理というものがあります。
長方形の長い板と支点となるものを用意します。長方形の手前から4の1の距離に支点を置き、先の方に重いものを乗せます。そして長方形の手前の端を軽く押すと先は僅かに上がり、しっかり押すと最高の高さまで上がります。更にこの板に少しばかりの強度のあるしなりがあった場合は、長方形の手前を軽く押すと先はほんの僅かに上がるに留まり、逆に強く押すと板は最高の高さに上がるばかりでなく、先にある重いものは跳ね上がりがります。
これを発音の音量でみると、板の先がほんの僅かに上がることがPと言えるかもしれません。また板の先の重いものが跳ね上がるのがffと言えるかもしれません。
この板の強さのある板のしなりと支点を身体の中に造り上げるとPとffを自在に操ることができるのかもしれません。
この板の強さとバネのきいたしなりと支点を持っているのが神尾真由子さんらではないかと感じます。
私は素人ですが、そこそこの板の強さ、しなり、支点を身につけたと思っています。そして私の場合呼吸にも、このテコの原理の応用を効かせています。
あくまで例えばの数値ですが、いつもは支点の位置を手前から4の1の距離において発音しているのを、自粛に入ってからは4の1.2程度の距離にし発音しています。これによりmPやPの音量に徹しやすくなります。一方でffやfが出しにくくなります。
まあ、バイオリン演奏の場合は実際に自分の中に力点(支点)や支点(適度に動く固定点)、しなり(連動力)ができているのを感じていますが、発音の場合はバイオリン演奏を感覚的に応用しているだけとも言えます。

この話は本当に長くなります。これだけ記しても説明が全然足りていませんし、私自身科学の勉強をもっともっとしないと説明が最低限完結しないと思います。でももっともっと勉強したところ事実の一部を表現できるのが精々だと思います。本気で取り組んだらバイオリン演奏の力点、支点、しなりだけの研究で一生が終わってしまうかもしれません。何しろ物理学と生理学(個体差からの生理学も含めて)が複雑に絡み合っているのですから。ですからまとめるにしても科学的な事項と感覚を上手いこと組み合わせて説明するしかないと思います。そして説明ができても「ではどうやってそれを造り上げるのですか?」になります。

PやmPのトレーニングだけしていてもコントロールの効いたPやmPを実践するのは難しいと思います。そこでffやfのトレーニングが必要になるのですが闇雲にやれば身体は潰れると思います。ですから先ずはノーマルやmP、mfによる正しい身体の使い方を覚える必要があると思います。そして次におおよそのf、mf、ノーマル、mP、Pの習得が必要になると思います。そしてここで初めて個人に適切なff、fのトレーニングのスタートラインに立てるのだと思います。


物事を習得するためには様々な過程と時間を要すると思います。何事も自在にできるようになるのは簡単ではないと思います。そしてこれは食っていくため、食いっぱぐれないための話にも通ずるのかもしれません。
食っていくための努力だけではいつ食いっぱぐれるかわかりません。一方食いっぱぐれないための努力をしても食っていくための努力をしなければ食っていけません。これはあくまで私が悩まされてきたことです。でもこれからは多くの人が向き合わなくてはならないことなのかもしれません。


そんなことを頭の隅で意識しながらmPやPの発音音量に徹しています。それは私にとっては自粛という意識ではありません。ffやfのトレーニングで身につけたことの応用という感じです。

[ 投稿者:むぐらし at 20:08 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月14日
特に何もありませんが
特に何もありませんが、たまには数行記述をしてみようと思いました。
今日は納豆を二パック買いました。今後お寿司が一生食べられないなら?それも仕方ないかなと思います。でもカツオの刺身と納豆は食べたいです。別に「粘り強く困難に勝つ」にかけたわけではなく、納豆は毎日のように、カツオの刺身はウィルス問題があるまでは週に二度くらい食べていました。いずれにしても健康でいられたら嬉しいですね。
[ 投稿者:むぐらし at 23:12 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月13日
やはり思うことは
最近思うことはいつも同じです。

仮に今年の11月に東京の科学技術館で日本弦楽器製作者協会主宰の「弦楽器フェア」が開催されても私は行かないと思います。
行くための私の基本的な条件は、感染者が極少数になった場合1、ワクチンの開発に成功した場合、2、特効薬ができた場合です。またはフェア開催直近に日本の感染者がゼロになった場合です。
そのいずれかが達成されるとは思えません。勿論、ワクチンや特効薬開発に必死になっていらっしゃる方は少なくないと思いますし、そんな中で開発が絶対不可能ではないかもしれません。

全国で非常事態宣言の解除あるいは一部解除が検討されていると思いますが、北海道と石川県の感染者が抑制されていないように見えます。
ここから本来は入院を検討した方がいい軽傷者の方や感染の疑いがある方が、自宅待機を余儀なくさせられているようにも思えます。要するに医療現場がかなりひっ迫しており、適正に対処する余裕がないのではないかと思えます。こんなことがイメージされるとフェアに行くことを考える自体、安易だと思うのです。

私が趣味を超えた意識でバイオリン練習を始めたのが1996年、バイオリン製作界との交流を始めたのが2006年です。気がつけばたまたま世紀をまたいで10年違いとなっています。そして2006年から弦楽器フェアを訪会して一度も行かなかった年はありません。今年もフェアに行きたいと思いましたし30年〜50年連続訪会は絶対達成したいと思っていました。50年は厳しくとも40年連続を達成し、1996年からの50年にしたいと思っていました。
しかし今は違います。こんな建前のような意識はさっさと放り捨てなければ医療現場の方々に失礼になると思いました。こんな建前のような意識を捨てなければ終息はおろか準終息も見えてこないと思いました。私一人がこんな実行をしたところでたかが一人の意識にすぎませんが、一方でされど一人一人でもあると思います。


世の中には、こだわりやプライドを捨てて地道に終息に向けて努力している組織や個人の方も少なくないと思います。ネットのニュースなどでも目にします。それに比べれば私が捨てるものなどは実に小さいものだと思います。

[ 投稿者:むぐらし at 23:06 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

2020年05月09日
普段は無駄であると思えても
連休中のことですが手縫いのマスクを造りました。また今日は簡易ですがアイマスクを兼ねたマスクを一枚造りました。酷い出来ですが本日外で使用しました。
一切の教本なしで小学生の時の実践の記憶のみでやりました。大変苦戦しました。
酷い出来でしたが「挑戦することに意義がある」という意識はありませんでした。少しでもいいからサージカルマスクの補完となるものを目指しました。
今日、ホームセンターでコットンの洗って使えるマスクを購入しました。千円程です。高値ではありますが、少量ですがマスクが手にはいる時期が来たようです。でもまだ後二枚程、手縫いのマスクを作ろうと思います。この先どうなっていくかわからないわけですから出来ることはやっておこうと思います。

バイオリンの自粛は5月末まで延長しました。ウィルス対策のためにやることはまだまだありますので今月はバイオリンをやっている場合ではありません。
CDを聞くのも自粛です。スマホなどで音楽を聞くこともしません。勿論インターネットカフェに行って音楽鑑賞もしません。
免疫力アップのためには音楽鑑賞は有効だと思います。でも自粛です。半年くらい音楽を聞かないことなんて大したことはありません。その程度で耳が鈍ることはないはずです。
CDを聞くのは自粛しますが6月に入ったらサイレントバイオリンに鉄ミュートを付けて少しばかりの練習は再開しようと思います。Mezzo pianoを基本に練習します。これは結構苦痛です。でも苦痛と向き合えないならば今バイオリンをやる価値はないと思っています。マスク造りや必要日曜大工をやるべきです。
私は耳で音を拾い上げるのを練習のベースにしていますので、CDを聞かずにサイレントバイオリンでMezzo pianoを基本に練習するのは苦痛です。でもその程度の苦痛で精進できないならばバイオリンを辞めようと思います。でもそうはならないと思います。
26歳の冬「今日練習を休んだら今までの練習がパーになる」と切迫感にかられて夜中に車の後部座席で練習をしたことに比べれば大したことはありません。
誰に命令されたわけではありませんが「バイオリンが上手くならなければ食いっぱぐれる」と思って練習しました。無茶苦茶な練習を随分取り入れましたが一心に練習するならば得るものは少なくないと思います。でも雑念が入っていると害にしかならないと思います。
その時はまだ経済危機ではありませんでした。生涯雇用が崩壊し社会全体で大々的なリストラが始まったのはその一年半後のことです。

2月にカッターで左手親指をザクッと切りましたが連休中にほぼ完治しました。カッターでケガをして以来、一日でも早くバイオリンの練習を再開できるように一切の飲酒を自粛することにしました。そこにウィルス問題が深刻化していきました。そして今、自粛を延長することにしました。大したことはありません。半年や一年くらい我慢できます。


昨日車に乗っているとマスクをせずにジョギングしている人を目にしました。結構目にしました。
私の理屈で申し訳ありませんがジョギングとは曖昧なランニングであり、曖昧なウォーキングにすぎないと思います。本人が良かれと思ってやっている割には効果が薄いと思います。曖昧な身体使いにより膝を痛める可能性もあると思います。そして感染のリスクを上げてしまう行為だと思います。行き交う人に飛沫を飛び散らかしているわけですから。
私でしたらインナーマッスルを鍛えるべくウォーキングと散歩を交互に行います。これの方が自分にも周りの方にも迷惑がかからないと思います。
今日もジョギングをしている人を随分と目にしました。ところが何故かマスクつけていたりやタオルを巻いているのです。そして昨日は人通りが多い中でジョギングをしている人がほとんどだったのに、今日は人通りの少ない環境で走っている人がほとんどでした。
人に気を使う人は自分も客観視できる人が多く、人に気を使わない人は自分に対しての気配りもダメなんだなと思いました。
やむを得えないとはいえマスクやタオルをつけてジョギングをすれば正しい身体使いや呼吸をしようという姿勢が必要になると思います。それが身体使いや呼吸法のバリエーションを増やすことになるかもしれません。
私がCD鑑賞を自粛してサイレントバイオリンでMezzo pianoで練習することで、演奏の幅を広げると共にそのプロセスを見つめるためでもあります。ですから苦痛であっても前向きにとらえています。そしてこういう時だからこそ気持ちを入れて実践することができるのだと思います。
自粛は能動的になるように工夫してこそだと思っています。そしてその姿勢はウィルス問題終息後にこそ生きてくるのだと思います。


このカテゴリーは「どうわらし記」です。
今童話を考える気持ちにはなれません。駄童話を考える心境にありません。しかし「食っていくため」「食いっぱぐれないため」「生き延びるため」を頭の隅で意識した絵本をつくってみようという気持ちがおきています。ろくなもんが出来るはずがありません。でもマスクのこともありやってみる価値はあると思います。
絵本には相応しくないテーマです。でもこんな難しいテーマは絵本でないとイメージできません。
「食っていくため」「食いっぱぐれないため」「生き延びるため」において相通ずる部分や違いを意識してつくってみたいと思います。
マスク同様すべて手書きです。発行部数は一部です。



[ 投稿者:むぐらし at 23:13 | どうわらし記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]

経済とは?
テレビでおなじみのあるニュースキャスターの方が「自粛を緩和して経済を回そうとするということは、新型コロナウィルスと経済を共存させて対処しようということなんでしょうね」
確かに報道を見ているとそう思いたくなりますし、そうとらえることが自然に思います。しかしこれを医療現場の人が聞いたらどう思われるでしょうか。怒りの感情を通りこし、悲しみの感情さえ自覚できずに、頭の中が真っ白になってしま可能性が高いように思えます。
ネットニュースによるある看護師の方の話ですが、防護服を着て現場に入られる時泣きながら心が壊れるそうです。
では医療現場の方々のような感染防止策を一般で実践すればいいかというと無理があると思います。それどころか中途半端に実践すれば逆効果になるように思います。

どうすれば良いのかわかりませんが、新型コロナウィルスと経済活動の共存ということはあり得ないことだと思います。
新型コロナウィルス問題は準終息を良しとするものでなく、可能な限りの早期終息を目指すものなのだと思います。ただ、ワクチン開発の科学者やその関係者の方々を除き、その他の人々は可能な限り早期の準終息を目指しすのが役割なんだと思います。
コロナウィルス問題を終息に向かわせるために経済活動や日常活動を自粛し、問題を終息に向かわせるために自粛を緩和し必要な経済や活動を動かすのがおおざっぱな答なんだと思います。

準終息も程遠い中で、数値だけ見て自粛を解除してもそれは健全な経済循環につながるとは思えません。韓国ではウィルスコントロールができたとして通常の経済活動をしようとした途端に数十人の感染者が発生しました。北海道も知事の努力や英断もあり一時はウィルスコントロールができているように見えたものの、今では首都圏と共に最も危険な地域になってしまいました。本質的リバウンドによる精神的パニックが適切な判断力を微妙に奪ってしまったように思えます。


大阪府知事の頑張りにより大阪に留まらず、兵庫県の感染者抑制にもつながっているように見えます。これは必然的にも思えます。
東京都の感染者抑制が上手くいかず、それが神奈川県、埼玉県、千葉県の感染者数にもつながっているのは必然的だと思います。また、茨城県は感染者こそ168人で留まっていますが亡くなられた方が9人と多く感染者数だけでは物語れない東京の影響が出ていると思います。クルーズ船の感染者の方を受け入れ対処に成功したようですが、それが県内においての準備や情報交換を遅らせてしまったかもしれません。
首都圏から離れた石川県も感染者が多く警戒県となっていますがお隣の富山県の感染者が多いことから必然的な背景事情が感じられます。

一方東北では感染者0の県がある一方で、隣県はある一定の感染者が出ています。そして北海道は感染者、亡くなられた方いずれも深刻な状況です。一度は封じ込めの評価かのあった北海道がこのような結果になっているわけです。この流れに必然性は何も感じられません。

私はこの必然的な流れと必然性が感じられない流れが混在していることに怖さを感じます。これを頭に入れずに数値だけで自粛と解除を繰り返すことに怖さを感じます。

私は茨城県にいて当然のことながら東京の流れを意識します。距離や利便性を考えると東京の感染者数はよそ事ではありません。首都圏に対比して大阪、兵庫、京都の流れも意識します。また首都圏、大阪圏の流れを受けた可能性のある石川県、富山県も意識します。首都圏と地方の二面を持つ茨城だからこそ意識します。また今回のウィルスの怖さを教えてくれた北海道も意識します。
一方で必然性が感じられない東北は違う意味で意識します。勿論感染者0の岩手県、亡くなられた方が一名に留まっている東北は凄いことだと思います。ただこれは他の地域がお手本にすることは非常に危険だと思います。首都圏や関西圏、名古屋圏、北海道や沖縄で応用が効くかは疑問です。
そしてこれらの地域すべてを意識した上で茨城県の数値を見ます。

私は単にこれらの地域の状況をイメージして、茨城県の数値を見て、自己の行動のあり方を決めているだけです。でも責任者というのは見るべき地域の数字を選び、状況をイメージし、さらに医療の面からも経済の面からもポイントを絞り、その上でシナリオを描くのだと思います。そのシナリオを描くのは簡単ではないと思います。時間は限られているのですから。そしていざ実践にうつそうとする時には、自分のシナリオやプライドを頭の隅に置き今に全てを注ぐのだと思います。そういうことを実践されたのが大阪府知事でいらっしゃるのではないかと感じています。
またそれを大局的に判断しなくてはならない立場にあるのが総理大臣をはじめとする国会議員の方々であると思います。

経済が大事と言いますが、数値とマニュアルだけを見て適切な提示ができるとは思いません。今回のウィルス問題においては経済だけみても、自粛だけでも、傷を最小限に留めることは難しいと思えます。
短期間で終息できるかできないかはさておき、ウィルス問題を終息させる方向に多くの人の意識が向かないと医療現場はひっ迫し、疲弊しきり、経済は何かが詰まっているような状況が続きジリ貧になるだけだと思えます。
どんなに叫んだところ見向きもしない人はいるわけですし。


まず、食っていくということはいかなることか、食いっぱぐれないために必要なことは何か、正当に生き延びるために必要なことであるか、そうでないか、そういうことを整理せずに答はでないと思います。
何の職業が必要性があるか、必要性が低いか、それは終息した時に考えるべきことであり、今はいかに終息に向かうかだと思います。

[ 投稿者:むぐらし at 18:43 | つぶや記 | コメント(0) | トラックバック(0) ]